2008年10月16日木曜日

Blues for you, Johnny

1940年の初秋、Earl Hines, Rex Stewart, Baby Doddsら盟友と共に録音されたこの曲は、シカゴのサウスサイドにて1920年代にルイ・アームストロングのホットファイブやキング・オリバーのクレオールジャズバンドなどで伝説を作り上げたニューオリンズの偉大なクラリネット奏者、Johnny Doddsが亡くなった際にベシェが捧げた曲である。録音場所は勿論、シカゴ。

ニューオリンズのビートを保ちながらも、ゆったりと美しく流れるメロディが、ベシェの演奏スタイルと重なる。クラリネットの分厚い木の音色が、優しく響く印象的な曲。

子供の頃、父の運転する車に乗ってシカゴに出かけた。よりによって車は迷子になってダウンタウンの貧困街へと迷い込み、子供なりに怖い思いをした。1980年代、その頃のシカゴと言えば再開発の途上にあり、まだ荒廃していた時代。ニューオリンズから繋がるミシシッピ川の貿易起点として栄え、ジャズのメッカとなった華やかな時代は遠く過ぎ去り消えていた。でも、それも僕にとってはアメリカに暮らして親と気ままに旅行をしていた子供の頃の楽しい記憶の一頁だ。

それから20年以上経った昨年の夏、僕は今度は自分が親として車を運転しながら、シカゴ郊外に立ち寄る機会に恵まれた。シカゴは今では全米有数のビルが湖畔に並ぶ未来都市。

夕暮れ時のミシガン湖岸から夕日を眺めると、丁度夕焼けに光る静かな湖の上に、シカゴのダウンタウンの造形がポカンと浮かんで見えた。

静かな湖畔の波間にシカゴの街を映し出して橙色の大きな夕日がのんびりと沈んでいった。

それを嫁と子供と一緒にぼんやりと眺めながら僕は、いい時間だな、と思った。

2008年8月3日日曜日

Shake it and break it

1940年の真夏、ニューヨークにてSidney Bechet and the chamber music society of lower Basin Streetなる楽団によりラジオ番組のために録音されたこの風変りな曲の、冒頭のお遊び部分はこう始まる・・・

「ソプラノサックスという楽器は、陽気なクラリネットと哀愁漂うオーボエのアイノコとして長年に渡り悲しい宿命を負わされ、誰一人この楽器を真面目に取り上げる者はいませんでした。しかし、きちんとした名手の手に渡れば、これ程素晴らしい楽器はないのです。ところで、お客さんの中で何方かドクターはおられますか?いらっしゃらない?そうでしょう、今日ソプラノサックスの名手と言えば、シドニーベシェ教授以外にはいらっしゃらないのです。さあ教授、ソプラノサックスの名曲、shake it and break itをお願いします!」

悪ふざけのイントロと得体の知れない楽団員による怪しい演奏。だが、ただの悪ふざけに留まると思うと大間違い。テンポ良いビートに乗って登場するベシェ教授の縦横無尽にソプラノサックスを操る演奏は、1940年という彼の技術が最もピークにあった時代において、全く他のレコーディングに劣らぬほど切れ味鋭く心地よい一級品だ。

僕がお金のない大学生の頃最初に手にしたソプラノサックスは台湾製の5万円の楽器で、音程は合わないし演奏中にキーは外れるしで、散々だった。薄っぺらい音がチャルメラみたいだったので、通称「ミンミン」と呼び周りにはかなり迷惑がられていた。当時お金に困って彼女に一旦売り渡したが、再度書籍代をケチってお金を払い買い戻した。その後彼女との縁を切らずに結婚したので、あの時お金を払わなくてもよかったかも、などと今でもちょっと思う事もあるけれど、まあそれはそれで良い。

そして僕が今やっている趣味のジャズバンドで初めてステージに立った時も、「ミンミン」を使った。その後、2代目の楽器を経て、現在は3代目の相棒と一緒にステージに上がっているが、「ミンミン」なくして今のバンドをやろうとは思わなかったし、音楽自体を続けようと思わなかったかもしれない。結局、僕が「ミンミン」を買い戻したことが、学生時代の悪友を集めて今のバンドを再び結成したいと思う原動力となった。人生において自分の趣味の扉を開く鍵は、そう幾つもない。「ミンミン」との出会いは、僕にとってのそのような貴重な鍵だったと思う。

「Shake it and break it」・・・この曲の冒頭の悪ふざけイントロを聴く度に、僕はいつも「ミンミン」の事を言われているようで、一人微笑んでしまう。

2008年6月4日水曜日

Georgia Cabin

1941年、ニューヨークにてWillie "the Lion" SmithとCharlie Shaversという豪華メンバーと共に録音されたこの作品は、ベシェが得意とする優しく落ち着いたメロディがゆったりと流れる名曲。

静かな朧月夜、散歩に出た。

街燈もない静かな田圃の畦道を一人歩くと、そよ風に吹かれて蛙の合唱に包み込まれた。

近くでは小川がとぼとぼと流れていき、どこかで鳥が眠たげに鳴く声が聴こえた。

まだ稲の植えていない田圃のまっすぐな水面に、遠くの家の灯りと黒い山の影が映り、そのまま吸い込まれそうに見えた。

ふと、このまま何処までもぐんぐん歩いていける気がした。

でもそれは、自分でそう思いたいだけなのかもしれないな、と思った。

蜜柑色の月が、淡い夜空の雲からのんびりと顔を出した

前には、静かな夜の畦道がぼんやりとまっすぐに伸びていた。

2008年4月21日月曜日

Foolin' around

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第4章「セカンドライン」より。)

子供が考える突拍子もないこと。それは、子供だからこそ出来ることであり、子供にとってなくてはならないもの。

そういうことを誰もが経験し、自分なりのやり方で心の中にしまい込んでいるはずだ。そしてやがて長い時を経て、それはその人の奥深くから湧き上がってくる。

些細なことであるかもしれないが、それが存在すること自体に、大切な価値がある。

2008年3月30日日曜日

Promenade aux Champs-Elysées

1951年の春、パリにて若きCluade Luterのバンドと録音したこのベシェの曲は、陽気なパリジャンが春の暖かなシャンゼリゼ通りを行き交う姿が目に浮かぶような明るい旋律ながら、同時にシャンソンのように何処か寂しげで心に残る旋律をあわせ持つ、思わず口ずさみたくなるような逸品。

先週のある暖かな晩、職場に山積みされた仕事を文字通りすべて放り出して仲間と夜桜を見に出かけた。ここ一ヶ月ほど、毎晩深夜まで終わりがない仕事に追われていたので、平日のそんな時間に外に出るのは久しぶりの事だった。気がつけば冬は終わっていて、春の優しい風が心地よく吹く中、七分咲きの桜が夜空によく映えていた。

持参したバーベキュー焜炉の炭火を囲み、焼き肉を摘まみつつ麦酒を片手に公園の桜の下でわいわい騒ぐ。傍から見れば何とない光景だろうが、普段もっともそうな顔をして遅くまで一緒に頑張っている職場の仲間とのそんな「オフ」の時間は、とても貴重で楽しい。

昨年の今頃、僕はアメリカ北部特有の乾いた粉雪が時折降り続ける中、いつまで経っても来ない春と着実に近づいてくる期末試験、それにあわせてやってくる友人らとの別れや新たな生活へのチャレンジなど、いろいろなものに迫られながら毎日頑張っていた。そして、その時も多くの仲間に囲まれていた。

日々の生活の充実は、周りの仲間にどれだけ恵まれているかに左右される部分がとても大きいように思う。そう思えるだけの仲間に、これからも恵まれ続けていきたい。

フランスに渡ったベシェを取り囲んだClaude Luterを始めとする若き仲間たち。世代が離れながらも音楽という共通項で繋がった彼らとの時間は、ベシェにとってどのようなものだったのだろうか。Promenade aux Champs-Elyséesを聴いていると、なんとなくそれが少しだけ分かるような気がしてくる。

2008年2月20日水曜日

Where am I

1947年、冬のシカゴにてベシェの盟友Mezz Mezzrowとのクインテットが録音したこの曲は、ベシェが生涯に残した数多くの作曲の中でも、もっとも幻想的で美しいメロディを持つものの一つだろう。

Pops Fosterの心地よいベースに支えられ展開される素朴ながらも歌心溢れたダイナミックな旋律は、ベシェの才能の真骨頂。とかく軽んじられがちなMezzrowの引きずるようなクラリネットも、ベシェの力強いリードの最高の引き立て役となり、ベシェとMezzrowが残した多くの録音の中でも特に秀逸な傑作だ。

先日軽く雪が舞う中、悪友仲間とやっているバンドの練習のため、ある町を訪れた。その町に行ったのは6年ぶりで、前回最後に訪れたのはその町に住んでいた学生時代の親友の一周忌の時だった。その一年前、突然の訃報をきいて駆けつけた時の単線電車は、いつまで経ってもその町につかない気がした。

その頃は僕もバンド仲間も皆独身で、いつも深夜まで飲み明かしては、夜道を押して仲間に実家まで車で送ってもらっていた。その道中にいつもその町を通っており、この曲を初めて聴かせてもらったのも、ちょうどそんな深夜の車の中だった。そして通夜の晩も、泥酔しきった僕を乗せて車はその町を走り抜けた。

あれから7年。ちょっとの間に皆結婚して周りの様子はすっかり変わり、今ではもう深夜の車で仲間に送ってもらうこともない。けれども久々にその町に来たら、なんだかその頃のことを急に鮮明に思い出した。その途端、この曲が頭に流れた。ふと、過ぎた時間を懐かしいと初めて感じたのは、いつの頃だったろうか、とぼんやりと思った。

2008年2月10日日曜日

Back o' town

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)

ジャズは売春街で始まった、などというのは全て間違いだ。

何もやることがないときだけ、フランクリン・ストリートなどのキャバレーに出向いて演奏していた、というだけだ。

ある日バンドが演奏している店があっても、次の日にはいなかった。そのような状態で、売春街でジャズが始まった、などと言えるのであろうか。

それは、男のようなものだ。何もやることがないから、男は売春宿に行く。そこで気分転換する。

ジャズとは、そういう男のようなものだった。

2008年2月1日金曜日

A moi d'payer

1955年、映画「Serie Noire」のためにベシェが用意した曲。冬のパリ、Vogueにて行われた異国情緒溢れるスタジオ録音も良いが、映画の中で夜のパリの華やかな高級カフェにて白いドレスの美人パリジェンヌが低い声で引きずるようにして歌っている方が、遥かに生々しく美しい。バックではベシェ本人が演奏者として登場し華を添えている。

先日、粉雪が舞うニューヨーク北部の街まで出かけ、右手を挙げ次のような宣誓をした:

"I do solemnly swear that I will support the constitution of the United States, and the constitution of the State of New York, and that I will faithfully discharge the duties of the attorney and counselor-at-law, according to the best of my ability, so help me god."

一年半前に渡米して以来、色々な事を経験しながら良くも悪くも刺激的な毎日を送ってくることが出来た。でも、そんな生活もそろそろ終わりだ。

A moi d'payerとは、精算する、という意味。

アメリカと言う国において、僕はいつも全くの半人前でしかなかったけれど、一つこの地に自分なりの小さな足跡を残せたと言う意味では、今はここでの生活を満足して締めくくれるような気がしている。

2008年1月25日金曜日

Lay your racket

言わずと知れたベシェ率いるNew Orleans Feetwarmersが1932年秋にニューヨークにてデビューし、旋風を巻き起こした際の録音の一つ。Noble Sissle Orchestra時代からの盟友であるトランペットのトミー・ラドニアがベシェのソプラノを素朴ながらも強固に支え続け、演奏に独特のドライブ感を与えている。ベシェがこの頃立て続けに作曲した作品の中でも、最も覚えやすく勢いのある旋律を持つ、いかにもベシェらしい曲だ。

ラドニアはその後、バンドで仕事がない時にはベシェと共に床屋業に手を出したりしたが、1939年に突如心臓発作で亡くなった。ラドニアを失った後も、ベシェは晩年に至るまで何度も同じFeetwarmersのバンド名での録音を試みた。しかし、ラドニアとの黄金時代を築き上げたこの曲を、二度と録音することはなかった。

僕が最初にジャズを意識して聴いたのは、10歳の頃祖父が突然送ってきたグレン・ミラーのテープだった。当時僕は父親の海外赴任に伴ってアメリカ中西部の町に渡ったばかりの頃であった。

勿論「アメリカ」と「外国」の区別もつかなかった小学生の自分に英語など分かるわけも無く、いきなり放り込まれた学校に日々出かけて行っては、ただただ自分の席に座って黙って絵を描いたりしていた。周りの人は皆笑顔で優しかったのをよく覚えていて、そんな毎日が辛かったという記憶は不思議なことに全くないのだが、今から考えるとそれはそれで結構大変な毎日だったのではないか、と思う。

ちょうどそんな時、楽器を始めた。多分楽器でもやれば言葉ができずとも周りに少しは早く溶け込めるだろう、という親の配慮だったのだと思う。そしてこれは、全くそのとおりの結果になった。僕は学校から帰ると毎日一生懸命に楽器の練習をして、これほど楽しいものはない、と素直に思った。そしてそれは、今でも変わらない。

祖父が亡くなってから暫くして、祖父の部屋に行った。綺麗なレコードプレイヤーと、沢山の古いSPレコードが出てきた。その中に、あのグレン・ミラーのレコードがあった。

祖父と生前、ジャズや音楽の話をしたことは一切無い。でも今でも時々、祖父はあの時どういう気持でわざわざグレン・ミラーのテープを一人買いに行き、海の向こうの僕に送ってきたのかな、と考える事がある。

僕が持ち帰った祖父のSPレコードは、今は実家で静かに埃を被っている。そのうちかけてみよう、と思いながらも、ずっと先延ばしになっている。ベシェがラドニアとのFeetwarmersのSPレコードを持っていたのかは知る由もない。けれどもなんだか僕は、それが埃を被ったままベシェの近くに静かにいつも置いてあったような気がしてならない。

2008年1月21日月曜日

New Orleans

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)

私の叔父は、歌がとてもうまかった。

あるとき、叔父は仕事の帰りがけにオペラハウスの前を通りかかった。叔父は立ち止まり、オペラを聴きながら、いきなりメインのパートを大声で歌いだした。

多くの人が彼の歌声を聴き、オペラハウスの中にまで聴こえてしまった。そして警官が来て、叔父は捕まった。

叔父は警察署で罰金を支払い一晩留置所に入れられる、とのことだった。

だが、警官も音楽好きだったのだろう。オペラのこともよく知っていた。彼は叔父にひとしきりオペラを歌わせると大いに満足し、そのまま叔父を釈放した。罰金も取らずに。

ニューオリンズとは、そんな街だった。

2008年1月19日土曜日

Cake walking babies

やり手ピアニストのクラレンス・ウイリアムスが1924年に作曲した軽快なダンスナンバー。ベシェは1924年末と1925年初にニューヨークにて続けて録音している。

メンバーは異なるものの、いずれもルイ・アームストロングとの共演であるというのが面白い。軽快なリズムに乗ったベシェとルイの若さ溢れる掛け合いは、この時代に録音された音楽の最高峰に立つ一流品だ。ベシェはその25年後の1949年にもワイルド・ビル・デイビソンと共にこの曲を録音しているが、彼の頭の中には若き頃のルイとの熱い演奏があったのは想像に難くない。

昨年の冬、20年ほど前にお世話になった人を訪ねた。白い粉雪が軽く風に舞っていて、とても静かな日。よく晴れた深く青い空に一面の白い雪景色が美しく映えていた。アメリカ北部特有の広大な森の中を切り開いて建てた家は、僕の記憶の中にあった家よりは少し小さかったけれど、その日雪に埋もれていた砂利道は、僕も昔一緒に石をどかす手伝いをしたのと同じ道だった。あの日は、とても日差しが強い夏の日だった。

僕は、20年の間にその人はどういう風に老いてしまっただろうか、というようなことを考えながらその砂利道をゆっくりと進んだ。その人の顔を思い出そうとしたけれど、もやもやとしか思い出せなかった。もし顔を見ても分からなかったらどうしよう、と一瞬考えた。けれど、ドアを開けて僕を迎えてくれたその人の笑顔を見た途端、何故か僕は、自分の記憶の中の笑顔とちっとも変わってないな、と思った。

昔と同じように、食卓にて短くお祈りを捧げてから皆でゆっくりと食事をした。ふと、なんだかでこぼこするな、と思って僕のテーブルクロスの下を探ると、小さな木を不器用にくっつけて作った木工船が出てきた。その船の横には、間違いなく今と変わらない僕の字で、自分の名前が書いてあった。

すっかり忘れていたけれど、その頃僕は毎週のようにその人の家に通って木工工作をしていたのだ。そんなものを20年間も大事に持っていてくれたというのが、ものすごく嬉しかった。同時に、やっぱり会いに来てよかった、と思った。冬の静かな午後の森に時間がゆったりと流れ、久しぶりに時計を見るのも忘れて話をした。帰りがけに船を一緒に持っていこうとすると、それは私が持っておくと言う。そうだ、その方がいい、と思った。

人生において、20年というのは長いようで短く、短いようで長い。ルイと共に音楽界で確固たる地位を築きあげたベシェが、25年間一度も録音せず又他のミュージシャンが殆ど顧みることもなかったこの曲を、改めて演奏しようと思ったのはどうしてだったのだろうか。そんなことを考えながら僕はふと、あの不細工な木工船をまた見ることはあるのだろうか、と思った。

2008年1月14日月曜日

Blues in Thirds

ピアノの名手アール・ハインズが1928年に作曲しソロピアノで録音した曲。何となく東洋的で静かな和音が耳に心地よい、まるで子守唄を聴くような優しいブルースだ。べシェは1940年の秋に、ハインズのピアノとベイビー・ドッズのドラムをバックに録音しているが、べシェの演奏もハインズのピアノに劣らないほど素晴らしく深い温かみがある。

心の中が落ち着く音がある。冬のからっと晴れて風の凪いだ海辺で、松林の上から聞こえてくるトンビの威勢良いのんびり声。誰もいない夕方の砂浜に夕陽に照らされながら滑らかに打ち寄せる湖の遠慮がちな波の音。寒さがしみる秋の夜の湿った闇の中で燃え尽きそうな赤い焚き火がくすぶる音。薄く霧の這う早朝の眠たげな湿原の静寂に遠くこだます白鳥のミュート・トランペットのような鳴き声。どれを聴いたときも強烈に、ああ、いい音だな、と思った。そしてこの曲を初めて聴いたときも、いい音だな、と思った。

何かの拍子に似たような香りを鼻にし、昔の記憶が突如思い出される、ということはたまにあるが、今まで音については不思議とあまりそういう覚えがない。でも、もしかしたらそれはそれで良いことなのかもしれない。世の中には、毎日出会えないような音が沢山溢れている方がいいだろうから。

2008年1月10日木曜日

Strike up the Band

1927年、ガーシュイン兄弟によるミュージカルの主題歌として登場したこの曲は、一度聞けば忘れる事が出来ない他のガーシュインナンバーの例にもれず、多くの人に愛され沢山のミュージシャンにより演奏されてきた。

ベシェも晩年の1952年、パリでこの曲を録音している。もとよりミュージカルゆえ、軽快を通り越して軽薄とも思える程ひたすら能天気に明るいこの曲を、ベシェがニューヨーク時代ではなく晩年のパリで録音しているのも、偶然ではないような気がする。ベシェの作曲したものを除いて、この曲ほどパリ時代の華やかなベシェに合う曲も他にあまりないだろう。だが、その演奏自体は決して軽薄ではなく、あくまで本気だ。それは、とかく悪く言われがちなパリ時代のベシェの録音全体を通して言える事でもある。

この正月、久々に日本に一時帰国した。学生時代から遊びでジャズを一緒にやっている悪友連中とちょこっとだけ演奏した後、盛大に重慶火鍋を囲んであまりの辛さに罵声を浴びせつつ酒で喉を潤し、その勢いで迷惑を顧みずに新婚さんの家に流れ込んで皆で緑茶を頂いていたら、更に酒が進んでしまった。

年をとってしまったようで大変嫌なのだが、こういう「無駄」な時間がどれだけ贅沢なものか、というのは、昔は分からなかったような気がする。僕なら、こういう連中と「Strike up the Band」を演奏したい。

2008年1月4日金曜日

Hat in a closet

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)

人々は良い音楽を求め探し回る。だが音楽とは、どこにでもあるのだ。それはあなたが求める中に常にある。悲しいとき、何かを記憶にとどめたいとき、嬉しいとき。

伯母さんが置いていった帽子を、クローゼットの中で見つけたとする。帽子はただそこに置かれてあり、伯母さんは亡くなってしまった。伯母さんは美しい人で、その帽子をいつもかぶっていた。良いときも、悪いときも、常に彼女と一緒に色々な所に行ったが、最後に置いていかれてしまった。

私の演奏も、そのようなものなのだ。