2008年1月25日金曜日

Lay your racket

言わずと知れたベシェ率いるNew Orleans Feetwarmersが1932年秋にニューヨークにてデビューし、旋風を巻き起こした際の録音の一つ。Noble Sissle Orchestra時代からの盟友であるトランペットのトミー・ラドニアがベシェのソプラノを素朴ながらも強固に支え続け、演奏に独特のドライブ感を与えている。ベシェがこの頃立て続けに作曲した作品の中でも、最も覚えやすく勢いのある旋律を持つ、いかにもベシェらしい曲だ。

ラドニアはその後、バンドで仕事がない時にはベシェと共に床屋業に手を出したりしたが、1939年に突如心臓発作で亡くなった。ラドニアを失った後も、ベシェは晩年に至るまで何度も同じFeetwarmersのバンド名での録音を試みた。しかし、ラドニアとの黄金時代を築き上げたこの曲を、二度と録音することはなかった。

僕が最初にジャズを意識して聴いたのは、10歳の頃祖父が突然送ってきたグレン・ミラーのテープだった。当時僕は父親の海外赴任に伴ってアメリカ中西部の町に渡ったばかりの頃であった。

勿論「アメリカ」と「外国」の区別もつかなかった小学生の自分に英語など分かるわけも無く、いきなり放り込まれた学校に日々出かけて行っては、ただただ自分の席に座って黙って絵を描いたりしていた。周りの人は皆笑顔で優しかったのをよく覚えていて、そんな毎日が辛かったという記憶は不思議なことに全くないのだが、今から考えるとそれはそれで結構大変な毎日だったのではないか、と思う。

ちょうどそんな時、楽器を始めた。多分楽器でもやれば言葉ができずとも周りに少しは早く溶け込めるだろう、という親の配慮だったのだと思う。そしてこれは、全くそのとおりの結果になった。僕は学校から帰ると毎日一生懸命に楽器の練習をして、これほど楽しいものはない、と素直に思った。そしてそれは、今でも変わらない。

祖父が亡くなってから暫くして、祖父の部屋に行った。綺麗なレコードプレイヤーと、沢山の古いSPレコードが出てきた。その中に、あのグレン・ミラーのレコードがあった。

祖父と生前、ジャズや音楽の話をしたことは一切無い。でも今でも時々、祖父はあの時どういう気持でわざわざグレン・ミラーのテープを一人買いに行き、海の向こうの僕に送ってきたのかな、と考える事がある。

僕が持ち帰った祖父のSPレコードは、今は実家で静かに埃を被っている。そのうちかけてみよう、と思いながらも、ずっと先延ばしになっている。ベシェがラドニアとのFeetwarmersのSPレコードを持っていたのかは知る由もない。けれどもなんだか僕は、それが埃を被ったままベシェの近くに静かにいつも置いてあったような気がしてならない。

2008年1月21日月曜日

New Orleans

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)

私の叔父は、歌がとてもうまかった。

あるとき、叔父は仕事の帰りがけにオペラハウスの前を通りかかった。叔父は立ち止まり、オペラを聴きながら、いきなりメインのパートを大声で歌いだした。

多くの人が彼の歌声を聴き、オペラハウスの中にまで聴こえてしまった。そして警官が来て、叔父は捕まった。

叔父は警察署で罰金を支払い一晩留置所に入れられる、とのことだった。

だが、警官も音楽好きだったのだろう。オペラのこともよく知っていた。彼は叔父にひとしきりオペラを歌わせると大いに満足し、そのまま叔父を釈放した。罰金も取らずに。

ニューオリンズとは、そんな街だった。

2008年1月19日土曜日

Cake walking babies

やり手ピアニストのクラレンス・ウイリアムスが1924年に作曲した軽快なダンスナンバー。ベシェは1924年末と1925年初にニューヨークにて続けて録音している。

メンバーは異なるものの、いずれもルイ・アームストロングとの共演であるというのが面白い。軽快なリズムに乗ったベシェとルイの若さ溢れる掛け合いは、この時代に録音された音楽の最高峰に立つ一流品だ。ベシェはその25年後の1949年にもワイルド・ビル・デイビソンと共にこの曲を録音しているが、彼の頭の中には若き頃のルイとの熱い演奏があったのは想像に難くない。

昨年の冬、20年ほど前にお世話になった人を訪ねた。白い粉雪が軽く風に舞っていて、とても静かな日。よく晴れた深く青い空に一面の白い雪景色が美しく映えていた。アメリカ北部特有の広大な森の中を切り開いて建てた家は、僕の記憶の中にあった家よりは少し小さかったけれど、その日雪に埋もれていた砂利道は、僕も昔一緒に石をどかす手伝いをしたのと同じ道だった。あの日は、とても日差しが強い夏の日だった。

僕は、20年の間にその人はどういう風に老いてしまっただろうか、というようなことを考えながらその砂利道をゆっくりと進んだ。その人の顔を思い出そうとしたけれど、もやもやとしか思い出せなかった。もし顔を見ても分からなかったらどうしよう、と一瞬考えた。けれど、ドアを開けて僕を迎えてくれたその人の笑顔を見た途端、何故か僕は、自分の記憶の中の笑顔とちっとも変わってないな、と思った。

昔と同じように、食卓にて短くお祈りを捧げてから皆でゆっくりと食事をした。ふと、なんだかでこぼこするな、と思って僕のテーブルクロスの下を探ると、小さな木を不器用にくっつけて作った木工船が出てきた。その船の横には、間違いなく今と変わらない僕の字で、自分の名前が書いてあった。

すっかり忘れていたけれど、その頃僕は毎週のようにその人の家に通って木工工作をしていたのだ。そんなものを20年間も大事に持っていてくれたというのが、ものすごく嬉しかった。同時に、やっぱり会いに来てよかった、と思った。冬の静かな午後の森に時間がゆったりと流れ、久しぶりに時計を見るのも忘れて話をした。帰りがけに船を一緒に持っていこうとすると、それは私が持っておくと言う。そうだ、その方がいい、と思った。

人生において、20年というのは長いようで短く、短いようで長い。ルイと共に音楽界で確固たる地位を築きあげたベシェが、25年間一度も録音せず又他のミュージシャンが殆ど顧みることもなかったこの曲を、改めて演奏しようと思ったのはどうしてだったのだろうか。そんなことを考えながら僕はふと、あの不細工な木工船をまた見ることはあるのだろうか、と思った。

2008年1月14日月曜日

Blues in Thirds

ピアノの名手アール・ハインズが1928年に作曲しソロピアノで録音した曲。何となく東洋的で静かな和音が耳に心地よい、まるで子守唄を聴くような優しいブルースだ。べシェは1940年の秋に、ハインズのピアノとベイビー・ドッズのドラムをバックに録音しているが、べシェの演奏もハインズのピアノに劣らないほど素晴らしく深い温かみがある。

心の中が落ち着く音がある。冬のからっと晴れて風の凪いだ海辺で、松林の上から聞こえてくるトンビの威勢良いのんびり声。誰もいない夕方の砂浜に夕陽に照らされながら滑らかに打ち寄せる湖の遠慮がちな波の音。寒さがしみる秋の夜の湿った闇の中で燃え尽きそうな赤い焚き火がくすぶる音。薄く霧の這う早朝の眠たげな湿原の静寂に遠くこだます白鳥のミュート・トランペットのような鳴き声。どれを聴いたときも強烈に、ああ、いい音だな、と思った。そしてこの曲を初めて聴いたときも、いい音だな、と思った。

何かの拍子に似たような香りを鼻にし、昔の記憶が突如思い出される、ということはたまにあるが、今まで音については不思議とあまりそういう覚えがない。でも、もしかしたらそれはそれで良いことなのかもしれない。世の中には、毎日出会えないような音が沢山溢れている方がいいだろうから。

2008年1月10日木曜日

Strike up the Band

1927年、ガーシュイン兄弟によるミュージカルの主題歌として登場したこの曲は、一度聞けば忘れる事が出来ない他のガーシュインナンバーの例にもれず、多くの人に愛され沢山のミュージシャンにより演奏されてきた。

ベシェも晩年の1952年、パリでこの曲を録音している。もとよりミュージカルゆえ、軽快を通り越して軽薄とも思える程ひたすら能天気に明るいこの曲を、ベシェがニューヨーク時代ではなく晩年のパリで録音しているのも、偶然ではないような気がする。ベシェの作曲したものを除いて、この曲ほどパリ時代の華やかなベシェに合う曲も他にあまりないだろう。だが、その演奏自体は決して軽薄ではなく、あくまで本気だ。それは、とかく悪く言われがちなパリ時代のベシェの録音全体を通して言える事でもある。

この正月、久々に日本に一時帰国した。学生時代から遊びでジャズを一緒にやっている悪友連中とちょこっとだけ演奏した後、盛大に重慶火鍋を囲んであまりの辛さに罵声を浴びせつつ酒で喉を潤し、その勢いで迷惑を顧みずに新婚さんの家に流れ込んで皆で緑茶を頂いていたら、更に酒が進んでしまった。

年をとってしまったようで大変嫌なのだが、こういう「無駄」な時間がどれだけ贅沢なものか、というのは、昔は分からなかったような気がする。僕なら、こういう連中と「Strike up the Band」を演奏したい。

2008年1月4日金曜日

Hat in a closet

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)

人々は良い音楽を求め探し回る。だが音楽とは、どこにでもあるのだ。それはあなたが求める中に常にある。悲しいとき、何かを記憶にとどめたいとき、嬉しいとき。

伯母さんが置いていった帽子を、クローゼットの中で見つけたとする。帽子はただそこに置かれてあり、伯母さんは亡くなってしまった。伯母さんは美しい人で、その帽子をいつもかぶっていた。良いときも、悪いときも、常に彼女と一緒に色々な所に行ったが、最後に置いていかれてしまった。

私の演奏も、そのようなものなのだ。