2007年12月31日月曜日

Blue Horizon

1944年12月末、真冬のニューヨークにてBlue Noteレーベルのためにベシェが作曲し録音したブルース。

よく晴れた夏の何もやる事がない休日の午後、眠たげに遠く青い海に白い波が一面ゆっくりとうねっていくような、そんな情景が簡単に目に浮かぶ名曲。ベシェの数々の録音の中で、間違いなく最も秀逸な作品の一つだ。

ブルースと聞いて、やたらと泥臭い旋律を思い浮かべる向きが多いかもしれないが、このような純粋に美しいブルースを聴くと、単純に心の底が落ち着き、つい聴きいってしまう。

2007年、今年はアメリカ中西部にて四苦八苦の生活をしながら、色々なことを経験してきた。面白いこともあれば、辛いこともあったけれど、そういう経験の一つ一つが、自分の感受性を高めるものでもあってくれれば、嬉しい。到底そんな高度な感受性は持ち合わせていないのかもしれないけれど。

晩秋のある夕方、職場の集まりに出るため、車で西へ向かった。慣れない職場で、先が全く見えないような毎日が続いていて、とてもそんな集まりにのこのこと出かけるような気分ではなかった。

急に、走っていく高速道路の先に、ぽっかりと大きな夕焼け空が真っ赤に広がっていた。その上を夕日に染まった雲がのんびりと流れ、なんだか風景がすべて茶色にくすんだ懐かしい映画の場面のように見えた。

そのとき僕は唐突に、もう少しここで頑張ってみよう、と思った。車の中には、「Blue Horizon」が流れていた。

2007年12月24日月曜日

Spirit Holiday

1958年12月、Vogueのクリスマス用レコーディングのためにベシェが用意した曲「Spirit Holiday」。

録音自体はオルガンをバックにベシェが囁いたり、ジャケットではベシェがサンタの赤帽子を被ったりといささか変り種嗜好だが、その素朴で心に残るメロディはベシェの真骨頂であり本物だ。

本Vogueのセッションは、ベシェ生涯最後の録音でもある。だが、そんなセンチメンタリズムは全く無用なほど、今でも美しく光り続けるベシェの傑作だ。

クリスマスの思い出も、そんなものであるような気がする。

2007年12月23日日曜日

Under the Creole Moon

1934年、Noble Sissleオーケストラの一員としてベシェが録音した陽気なスイングナンバー。 底抜けに陽気な曲は、ふと気がつくと何故かとても寂しい気持になることがある。それは、冷たい月が照らす冬の薄暗い路地裏から、決して自分は入れない他人の家の暖かな明かりを眺める気分に、少し似ているような気がする。

下記は5年前の文。さて、今晩はどんな月が夜道を照らしているのだろう。

「月」

昔、野宿をした。

東京駅で終電に乗り遅れ、皇居の広場のベンチでねっころがって夜空を眺めた。

静まりかえった東京のどまんなかで、深い星空に薄く輪のかかったぼんやりした月が面倒くさそうに昇っていった。

あれから10年。

会社員として働きながら家庭を持ち。

ふと、今日の夜空の月はどんな風に見えるだろう、と湯船の中で夜風の音を聴きながら思った。

でも、考えすぎると疲れてしまうから、とっとと寝てしまおう、と思い直した。

外では夜風がことこと鳴っている。

きっとその上では今日もあのまあるい月が、ちょっとぼやけて光っているのだ。

目を閉じると、昔見たあの月が見える気がした。

けれども、それははるか遠くの記憶の中で、もうすっかりぼやけてしまっているようでもあった。

2007年12月21日金曜日

Prelude

(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第1章「道の曲がり角」より。)

中にはジャズについて何も分かっていない輩もいる。彼等はジャズはただのいかがわしい物と思っている。でもそれは違う。だから私が本当の所を伝えよう。ジャズ-それが何であるのか、どうやって今に至るのか。

私のところに来て「Tin Roof Bluesを演奏するのか?」と言う人がいる。彼らは「Be-bopについてどう思うか?」「ルイが出したレコードについてどう思うか?」などと聞く。しかし、そのような質問に答えるためには、ずっとずっと話を遡らなくてはならない。彼等が思っている以上に、奥が深いのだ。

彼らは私のところにやってきて、このレコードが好きだとかあれがいいとか言う。そして私が音楽で何をしようとしているのかと聞く。彼らはジャズはこれからどうなるのか、どこに進むのか、と聞く。ある日パリで演奏しているとき、ある男が私のところにやってきた。演奏が終わった後、彼と話をした。彼は私の演奏を聴けたことが彼にとってどんなにありがいことであったか、いかに貴重な経験であったかを延々とまくしたてた。私は彼に対して、「私は今までやってきたように、いつも通りの演奏をしただけです。」と答えた。それしか言いようがなかったのだ。

しかし彼は続けた。彼はあることを確かめたくて私のところに来たのだと言う。彼は当初はここに来るつもりではなかったこと、それがたまたま彼の友人が私の演奏を聴きに来ようと誘ったこと、私がまだ古いニューオリンズの音楽をやっていると言っていたこと。彼はそのように説明した。「この音楽はあなただけのものです。」と彼は言った。

だが、私だけの音楽などない。音楽は、それを感じることができる全ての人のものなのだ。音楽があり、それを感じることができれば、それはあなたのものでもあるのだ。日の光を感じるには日のもとに出なければならない。音楽についても同じだ。

しかし、彼が言ったことは私を考えさせた。ラグタイムがニューオリンズで始まったと聞いて、そこで思考が止まってしまっている人が多くいるのではないか。ジャズを追憶のものとしてしか考えていない人がいるのでないか。彼らは分かっていない。彼らの目の前で今起こっていることが、まさに彼らの追憶の彼方で起こったものと全く同じくらい価値のあるものであることを。

彼は続けた。「あなたはフランス人に活を与えた。あなたが来るまで彼らにはそれが欠けていた。」そして、「あなたのような人間がいなくなった後、ジャズはどうなってしまうのか?」と彼は聞いた。

だがジャズは、私だけのものではない。ジャズとは一人の演奏家のものではない。ジャズは常にあり続けるのだ。私と共に終わりはしない。なくなったりはしない。メロディがあり・・・それを感じる人がいて・・・メロディがある限り、リズムが生まれ、ジャズとなる。しかし彼は話をやめなかった。彼は私こそがこの音楽を作ったのだ、とさえ言い出した。私と、バディ・ボールデン、キッド・オリ-、ラロッカなどがだ。そこまで来て、それは違う、と私はさえぎった。ボールデンやオリバーなど、一人の人間がジャズを造ったという人がいるが、それは違う。そんなことではなかった。

私は、その昔どのようにしてジャズが始まったか、彼に話し始めた。人々の手拍子・・・それすらもジャズであること。テーブルを叩くだけでもジャズになること。それを説明した。

しかし彼は心配だと言った。彼のように、友達に誘われてでもしないと聞く機会もなく、ジャズはなくなってしまうのではないかと。彼は「ジャズは環境が作る」と言った。「環境を作る何か。でも、今の世の中、それがなくなり、伝説しか残っていない。初期の時代のことについて本を読み、友達と集まってレコードをかけるだけ。それ以上に何もできない。今から楽器を始める子供達は、どこからもジャズなど聞こえないこの世の中で、ジャズをどのよう求めればいいのだろう・・・。」

「もしかしたら全てニューオリンズで終わってしまったのかもしれない。」彼は続けた。「もしかしたらもうわずかな生き残りを除いてジャズなど存在しないのかもしれない。もしかしたらもうそれを覚えている者以外にはジャズは存在しないのかもしれない。」

まあ、このようなことが彼の頭の中にあったようだ。しかし、言わせて欲しい。ジャズはそもそも白人がこの音楽につけた名前だが、私がもしあなたの背後から「ジャズ、それは君にどんな意味を持っているか?」と囁いたとしたら、ジャズはあなたにとってどのような意味を持つだろうか・・・そんなことではこの音楽を説明などできないはずだ。

音楽には二つある。クラシックとラグタイムだ。ラグタイムという時には、言葉の中にスピリットが感じられる。私の祖父Omarが歌っていた黒人霊歌だ。だがジャズ・・・これは何でもありうる。気分のいい時ふざけあい楽しむ。昔はふざける、という意味でジャズ(Jass)が使われた。だがラグタイムという時、それは音楽を指す。

しかし、私が言いたいのはこういうことだ。全ての神の子には幸せが必要だ。私の人種、音楽・・・ジャズは彼らが、あなたがどうやったら幸せになれるのか、ということを示す何かだ。そしてそれは彼らを幸せにするものだ。霊歌は寂しいものだ。しかし同時にある意味幸せも含んでいる。いつの日か「お前は天国には行けない。この地球上にも居場所はない。お前は我々の人種と異なる。」と言われるかもしれない。それでも、全ての神の子はどこかで幸せを手にする。我々もそうだ。

黒人は音楽に固執しない。だが、音楽を必要とする。それが彼にとって意味があるからだ。彼がその意味あるものとなるからだ。常に正直であれば、音楽に触れられる。だが「そこがあなたの居場所だ。」と不自然に強制されて、正直でなどいられるのであろうか。

しかし、音楽を感じることが出来れば、彼の言うことがわかるはずだ。だからこそ、彼はそれを大事にするのだ。彼は常に学んでいるのだ。自分の内から湧き出る言葉、時間を遡り、アフリカまで遡り、密林の中、太鼓が密林を越えて会話し、彼の心臓の鼓動のように空気を揺るがすことを。

私の話は大昔に遡る。私には関係がなかった頃まで遡る。私の音楽はそのようなものだからだ・・・つまり、私はそれを承継しているのだ。父が子に昔話を語り継ぐように。そしてそれが今の私を作り上げているのだ。私の人生は全て、私が理解している何かを伝えようとしてきた・・・私の中で私以前から存在してきた何かだ。音楽になることを待っている何かだ。それは私が自分の生涯をかけて自分自身に明らかにしようとしてきたものでもある。

私は私が逝く前にこの音楽について伝えておきたい。人生は短く、人が幸せに逝く前にはやっておかねばならないことがある。

死・・・これは誰にでも訪れる。しかし、単に死ぬことと、幸せに逝くこととは全く違うことだ。自分のやり遂げたいことをやり遂げて逝くこと、これは全く異なることだ。

それはある道の曲がり角の小さな家で生まれた男に似ている。少し経つと男は道を歩き始める。男はその道を歩き、そして帰ってくる。帰ってきたとき、その男は何かを理解している。つまり、彼は道がどこに進み、帰ってくるかを知っている。彼は、道が進んでいったのと同じように帰ってくることを知っている。

しかしもう一人の男は違う。彼はその道の曲がり角にいついて歩こうとしない。時は経ち、彼の余命はあとわずかだ。彼は道を見るが、それが本当は何であるのか、分からない。彼が知っているのは道が始まっていると言うことだけだ。彼は道がどのように進んで、どのように帰ってくるのか、帰ってくるときにどのように感じるのか、分からない。彼はいい人かもしれない。しかし、彼は理解していないことがあるのだ。道が悪かったのか、彼が悪かったのか、それとも何か他のものか、それはさておき、彼は信じることができなかったのだ。

私が若かった頃のことを思い出す。他の子供のようにおもちゃを持っていなかった。おもちゃなんて一つもなかった。誰かがおもちゃをくれてもどうしていいか分からなかっただろう。そんな時、ある歌を書き始めた。Sans Amisという曲だ。何も遊ぶものがなく、誰とも遊べなかった。だが、私には歌があった。私はどんどんその歌を作った。私は寂しさの歌を作ったが、歌を作ったら寂しくなくなった。私は幸運だった。私には信じるものが出来たのだ。そして自分自身も信じられるようになった。

私は確かに悪さもした。しかし音楽に対しては違う。音楽は信じなければならない。本気で信じ、丁重に扱わねばならない。音楽は道なのだ。その脇にはいいこともあれば悲劇もある。どこかで道草をしても何が待っているかはわからない。だが音楽という道は、それ自体は止まらない。常に進み続ける。それを信じるしかないのだ。それは違う、と言いにその道を帰ってきた者はいないのだから。

もし帰ってきた時、道の脇には川があるだろう。全てを始めた場所に戻り、川の向こうを眺め、用意をする。大分私も幸せな気分になってきたようだ。もうそろそろ私の用意もできてきた。もうそろそろ。