1951年の春、パリにて若きCluade Luterのバンドと録音したこのベシェの曲は、陽気なパリジャンが春の暖かなシャンゼリゼ通りを行き交う姿が目に浮かぶような明るい旋律ながら、同時にシャンソンのように何処か寂しげで心に残る旋律をあわせ持つ、思わず口ずさみたくなるような逸品。
先週のある暖かな晩、職場に山積みされた仕事を文字通りすべて放り出して仲間と夜桜を見に出かけた。ここ一ヶ月ほど、毎晩深夜まで終わりがない仕事に追われていたので、平日のそんな時間に外に出るのは久しぶりの事だった。気がつけば冬は終わっていて、春の優しい風が心地よく吹く中、七分咲きの桜が夜空によく映えていた。
持参したバーベキュー焜炉の炭火を囲み、焼き肉を摘まみつつ麦酒を片手に公園の桜の下でわいわい騒ぐ。傍から見れば何とない光景だろうが、普段もっともそうな顔をして遅くまで一緒に頑張っている職場の仲間とのそんな「オフ」の時間は、とても貴重で楽しい。
昨年の今頃、僕はアメリカ北部特有の乾いた粉雪が時折降り続ける中、いつまで経っても来ない春と着実に近づいてくる期末試験、それにあわせてやってくる友人らとの別れや新たな生活へのチャレンジなど、いろいろなものに迫られながら毎日頑張っていた。そして、その時も多くの仲間に囲まれていた。
日々の生活の充実は、周りの仲間にどれだけ恵まれているかに左右される部分がとても大きいように思う。そう思えるだけの仲間に、これからも恵まれ続けていきたい。
フランスに渡ったベシェを取り囲んだClaude Luterを始めとする若き仲間たち。世代が離れながらも音楽という共通項で繋がった彼らとの時間は、ベシェにとってどのようなものだったのだろうか。Promenade aux Champs-Elyséesを聴いていると、なんとなくそれが少しだけ分かるような気がしてくる。
2008年3月30日日曜日
2008年2月20日水曜日
Where am I
1947年、冬のシカゴにてベシェの盟友Mezz Mezzrowとのクインテットが録音したこの曲は、ベシェが生涯に残した数多くの作曲の中でも、もっとも幻想的で美しいメロディを持つものの一つだろう。
Pops Fosterの心地よいベースに支えられ展開される素朴ながらも歌心溢れたダイナミックな旋律は、ベシェの才能の真骨頂。とかく軽んじられがちなMezzrowの引きずるようなクラリネットも、ベシェの力強いリードの最高の引き立て役となり、ベシェとMezzrowが残した多くの録音の中でも特に秀逸な傑作だ。
先日軽く雪が舞う中、悪友仲間とやっているバンドの練習のため、ある町を訪れた。その町に行ったのは6年ぶりで、前回最後に訪れたのはその町に住んでいた学生時代の親友の一周忌の時だった。その一年前、突然の訃報をきいて駆けつけた時の単線電車は、いつまで経ってもその町につかない気がした。
その頃は僕もバンド仲間も皆独身で、いつも深夜まで飲み明かしては、夜道を押して仲間に実家まで車で送ってもらっていた。その道中にいつもその町を通っており、この曲を初めて聴かせてもらったのも、ちょうどそんな深夜の車の中だった。そして通夜の晩も、泥酔しきった僕を乗せて車はその町を走り抜けた。
あれから7年。ちょっとの間に皆結婚して周りの様子はすっかり変わり、今ではもう深夜の車で仲間に送ってもらうこともない。けれども久々にその町に来たら、なんだかその頃のことを急に鮮明に思い出した。その途端、この曲が頭に流れた。ふと、過ぎた時間を懐かしいと初めて感じたのは、いつの頃だったろうか、とぼんやりと思った。
Pops Fosterの心地よいベースに支えられ展開される素朴ながらも歌心溢れたダイナミックな旋律は、ベシェの才能の真骨頂。とかく軽んじられがちなMezzrowの引きずるようなクラリネットも、ベシェの力強いリードの最高の引き立て役となり、ベシェとMezzrowが残した多くの録音の中でも特に秀逸な傑作だ。
先日軽く雪が舞う中、悪友仲間とやっているバンドの練習のため、ある町を訪れた。その町に行ったのは6年ぶりで、前回最後に訪れたのはその町に住んでいた学生時代の親友の一周忌の時だった。その一年前、突然の訃報をきいて駆けつけた時の単線電車は、いつまで経ってもその町につかない気がした。
その頃は僕もバンド仲間も皆独身で、いつも深夜まで飲み明かしては、夜道を押して仲間に実家まで車で送ってもらっていた。その道中にいつもその町を通っており、この曲を初めて聴かせてもらったのも、ちょうどそんな深夜の車の中だった。そして通夜の晩も、泥酔しきった僕を乗せて車はその町を走り抜けた。
あれから7年。ちょっとの間に皆結婚して周りの様子はすっかり変わり、今ではもう深夜の車で仲間に送ってもらうこともない。けれども久々にその町に来たら、なんだかその頃のことを急に鮮明に思い出した。その途端、この曲が頭に流れた。ふと、過ぎた時間を懐かしいと初めて感じたのは、いつの頃だったろうか、とぼんやりと思った。
2008年2月10日日曜日
Back o' town
(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)
ジャズは売春街で始まった、などというのは全て間違いだ。
何もやることがないときだけ、フランクリン・ストリートなどのキャバレーに出向いて演奏していた、というだけだ。
ある日バンドが演奏している店があっても、次の日にはいなかった。そのような状態で、売春街でジャズが始まった、などと言えるのであろうか。
それは、男のようなものだ。何もやることがないから、男は売春宿に行く。そこで気分転換する。
ジャズとは、そういう男のようなものだった。
ジャズは売春街で始まった、などというのは全て間違いだ。
何もやることがないときだけ、フランクリン・ストリートなどのキャバレーに出向いて演奏していた、というだけだ。
ある日バンドが演奏している店があっても、次の日にはいなかった。そのような状態で、売春街でジャズが始まった、などと言えるのであろうか。
それは、男のようなものだ。何もやることがないから、男は売春宿に行く。そこで気分転換する。
ジャズとは、そういう男のようなものだった。
2008年2月1日金曜日
A moi d'payer
1955年、映画「Serie Noire」のためにベシェが用意した曲。冬のパリ、Vogueにて行われた異国情緒溢れるスタジオ録音も良いが、映画の中で夜のパリの華やかな高級カフェにて白いドレスの美人パリジェンヌが低い声で引きずるようにして歌っている方が、遥かに生々しく美しい。バックではベシェ本人が演奏者として登場し華を添えている。
先日、粉雪が舞うニューヨーク北部の街まで出かけ、右手を挙げ次のような宣誓をした:
"I do solemnly swear that I will support the constitution of the United States, and the constitution of the State of New York, and that I will faithfully discharge the duties of the attorney and counselor-at-law, according to the best of my ability, so help me god."
一年半前に渡米して以来、色々な事を経験しながら良くも悪くも刺激的な毎日を送ってくることが出来た。でも、そんな生活もそろそろ終わりだ。
A moi d'payerとは、精算する、という意味。
アメリカと言う国において、僕はいつも全くの半人前でしかなかったけれど、一つこの地に自分なりの小さな足跡を残せたと言う意味では、今はここでの生活を満足して締めくくれるような気がしている。
先日、粉雪が舞うニューヨーク北部の街まで出かけ、右手を挙げ次のような宣誓をした:
"I do solemnly swear that I will support the constitution of the United States, and the constitution of the State of New York, and that I will faithfully discharge the duties of the attorney and counselor-at-law, according to the best of my ability, so help me god."
一年半前に渡米して以来、色々な事を経験しながら良くも悪くも刺激的な毎日を送ってくることが出来た。でも、そんな生活もそろそろ終わりだ。
A moi d'payerとは、精算する、という意味。
アメリカと言う国において、僕はいつも全くの半人前でしかなかったけれど、一つこの地に自分なりの小さな足跡を残せたと言う意味では、今はここでの生活を満足して締めくくれるような気がしている。
2008年1月25日金曜日
Lay your racket
言わずと知れたベシェ率いるNew Orleans Feetwarmersが1932年秋にニューヨークにてデビューし、旋風を巻き起こした際の録音の一つ。Noble Sissle Orchestra時代からの盟友であるトランペットのトミー・ラドニアがベシェのソプラノを素朴ながらも強固に支え続け、演奏に独特のドライブ感を与えている。ベシェがこの頃立て続けに作曲した作品の中でも、最も覚えやすく勢いのある旋律を持つ、いかにもベシェらしい曲だ。
ラドニアはその後、バンドで仕事がない時にはベシェと共に床屋業に手を出したりしたが、1939年に突如心臓発作で亡くなった。ラドニアを失った後も、ベシェは晩年に至るまで何度も同じFeetwarmersのバンド名での録音を試みた。しかし、ラドニアとの黄金時代を築き上げたこの曲を、二度と録音することはなかった。
僕が最初にジャズを意識して聴いたのは、10歳の頃祖父が突然送ってきたグレン・ミラーのテープだった。当時僕は父親の海外赴任に伴ってアメリカ中西部の町に渡ったばかりの頃であった。
勿論「アメリカ」と「外国」の区別もつかなかった小学生の自分に英語など分かるわけも無く、いきなり放り込まれた学校に日々出かけて行っては、ただただ自分の席に座って黙って絵を描いたりしていた。周りの人は皆笑顔で優しかったのをよく覚えていて、そんな毎日が辛かったという記憶は不思議なことに全くないのだが、今から考えるとそれはそれで結構大変な毎日だったのではないか、と思う。
ちょうどそんな時、楽器を始めた。多分楽器でもやれば言葉ができずとも周りに少しは早く溶け込めるだろう、という親の配慮だったのだと思う。そしてこれは、全くそのとおりの結果になった。僕は学校から帰ると毎日一生懸命に楽器の練習をして、これほど楽しいものはない、と素直に思った。そしてそれは、今でも変わらない。
祖父が亡くなってから暫くして、祖父の部屋に行った。綺麗なレコードプレイヤーと、沢山の古いSPレコードが出てきた。その中に、あのグレン・ミラーのレコードがあった。
祖父と生前、ジャズや音楽の話をしたことは一切無い。でも今でも時々、祖父はあの時どういう気持でわざわざグレン・ミラーのテープを一人買いに行き、海の向こうの僕に送ってきたのかな、と考える事がある。
僕が持ち帰った祖父のSPレコードは、今は実家で静かに埃を被っている。そのうちかけてみよう、と思いながらも、ずっと先延ばしになっている。ベシェがラドニアとのFeetwarmersのSPレコードを持っていたのかは知る由もない。けれどもなんだか僕は、それが埃を被ったままベシェの近くに静かにいつも置いてあったような気がしてならない。
ラドニアはその後、バンドで仕事がない時にはベシェと共に床屋業に手を出したりしたが、1939年に突如心臓発作で亡くなった。ラドニアを失った後も、ベシェは晩年に至るまで何度も同じFeetwarmersのバンド名での録音を試みた。しかし、ラドニアとの黄金時代を築き上げたこの曲を、二度と録音することはなかった。
僕が最初にジャズを意識して聴いたのは、10歳の頃祖父が突然送ってきたグレン・ミラーのテープだった。当時僕は父親の海外赴任に伴ってアメリカ中西部の町に渡ったばかりの頃であった。
勿論「アメリカ」と「外国」の区別もつかなかった小学生の自分に英語など分かるわけも無く、いきなり放り込まれた学校に日々出かけて行っては、ただただ自分の席に座って黙って絵を描いたりしていた。周りの人は皆笑顔で優しかったのをよく覚えていて、そんな毎日が辛かったという記憶は不思議なことに全くないのだが、今から考えるとそれはそれで結構大変な毎日だったのではないか、と思う。
ちょうどそんな時、楽器を始めた。多分楽器でもやれば言葉ができずとも周りに少しは早く溶け込めるだろう、という親の配慮だったのだと思う。そしてこれは、全くそのとおりの結果になった。僕は学校から帰ると毎日一生懸命に楽器の練習をして、これほど楽しいものはない、と素直に思った。そしてそれは、今でも変わらない。
祖父が亡くなってから暫くして、祖父の部屋に行った。綺麗なレコードプレイヤーと、沢山の古いSPレコードが出てきた。その中に、あのグレン・ミラーのレコードがあった。
祖父と生前、ジャズや音楽の話をしたことは一切無い。でも今でも時々、祖父はあの時どういう気持でわざわざグレン・ミラーのテープを一人買いに行き、海の向こうの僕に送ってきたのかな、と考える事がある。
僕が持ち帰った祖父のSPレコードは、今は実家で静かに埃を被っている。そのうちかけてみよう、と思いながらも、ずっと先延ばしになっている。ベシェがラドニアとのFeetwarmersのSPレコードを持っていたのかは知る由もない。けれどもなんだか僕は、それが埃を被ったままベシェの近くに静かにいつも置いてあったような気がしてならない。
2008年1月21日月曜日
New Orleans
(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)
私の叔父は、歌がとてもうまかった。
あるとき、叔父は仕事の帰りがけにオペラハウスの前を通りかかった。叔父は立ち止まり、オペラを聴きながら、いきなりメインのパートを大声で歌いだした。
多くの人が彼の歌声を聴き、オペラハウスの中にまで聴こえてしまった。そして警官が来て、叔父は捕まった。
叔父は警察署で罰金を支払い一晩留置所に入れられる、とのことだった。
だが、警官も音楽好きだったのだろう。オペラのこともよく知っていた。彼は叔父にひとしきりオペラを歌わせると大いに満足し、そのまま叔父を釈放した。罰金も取らずに。
ニューオリンズとは、そんな街だった。
私の叔父は、歌がとてもうまかった。
あるとき、叔父は仕事の帰りがけにオペラハウスの前を通りかかった。叔父は立ち止まり、オペラを聴きながら、いきなりメインのパートを大声で歌いだした。
多くの人が彼の歌声を聴き、オペラハウスの中にまで聴こえてしまった。そして警官が来て、叔父は捕まった。
叔父は警察署で罰金を支払い一晩留置所に入れられる、とのことだった。
だが、警官も音楽好きだったのだろう。オペラのこともよく知っていた。彼は叔父にひとしきりオペラを歌わせると大いに満足し、そのまま叔父を釈放した。罰金も取らずに。
ニューオリンズとは、そんな街だった。
2008年1月19日土曜日
Cake walking babies
やり手ピアニストのクラレンス・ウイリアムスが1924年に作曲した軽快なダンスナンバー。ベシェは1924年末と1925年初にニューヨークにて続けて録音している。
メンバーは異なるものの、いずれもルイ・アームストロングとの共演であるというのが面白い。軽快なリズムに乗ったベシェとルイの若さ溢れる掛け合いは、この時代に録音された音楽の最高峰に立つ一流品だ。ベシェはその25年後の1949年にもワイルド・ビル・デイビソンと共にこの曲を録音しているが、彼の頭の中には若き頃のルイとの熱い演奏があったのは想像に難くない。
昨年の冬、20年ほど前にお世話になった人を訪ねた。白い粉雪が軽く風に舞っていて、とても静かな日。よく晴れた深く青い空に一面の白い雪景色が美しく映えていた。アメリカ北部特有の広大な森の中を切り開いて建てた家は、僕の記憶の中にあった家よりは少し小さかったけれど、その日雪に埋もれていた砂利道は、僕も昔一緒に石をどかす手伝いをしたのと同じ道だった。あの日は、とても日差しが強い夏の日だった。
僕は、20年の間にその人はどういう風に老いてしまっただろうか、というようなことを考えながらその砂利道をゆっくりと進んだ。その人の顔を思い出そうとしたけれど、もやもやとしか思い出せなかった。もし顔を見ても分からなかったらどうしよう、と一瞬考えた。けれど、ドアを開けて僕を迎えてくれたその人の笑顔を見た途端、何故か僕は、自分の記憶の中の笑顔とちっとも変わってないな、と思った。
昔と同じように、食卓にて短くお祈りを捧げてから皆でゆっくりと食事をした。ふと、なんだかでこぼこするな、と思って僕のテーブルクロスの下を探ると、小さな木を不器用にくっつけて作った木工船が出てきた。その船の横には、間違いなく今と変わらない僕の字で、自分の名前が書いてあった。
すっかり忘れていたけれど、その頃僕は毎週のようにその人の家に通って木工工作をしていたのだ。そんなものを20年間も大事に持っていてくれたというのが、ものすごく嬉しかった。同時に、やっぱり会いに来てよかった、と思った。冬の静かな午後の森に時間がゆったりと流れ、久しぶりに時計を見るのも忘れて話をした。帰りがけに船を一緒に持っていこうとすると、それは私が持っておくと言う。そうだ、その方がいい、と思った。
人生において、20年というのは長いようで短く、短いようで長い。ルイと共に音楽界で確固たる地位を築きあげたベシェが、25年間一度も録音せず又他のミュージシャンが殆ど顧みることもなかったこの曲を、改めて演奏しようと思ったのはどうしてだったのだろうか。そんなことを考えながら僕はふと、あの不細工な木工船をまた見ることはあるのだろうか、と思った。
メンバーは異なるものの、いずれもルイ・アームストロングとの共演であるというのが面白い。軽快なリズムに乗ったベシェとルイの若さ溢れる掛け合いは、この時代に録音された音楽の最高峰に立つ一流品だ。ベシェはその25年後の1949年にもワイルド・ビル・デイビソンと共にこの曲を録音しているが、彼の頭の中には若き頃のルイとの熱い演奏があったのは想像に難くない。
昨年の冬、20年ほど前にお世話になった人を訪ねた。白い粉雪が軽く風に舞っていて、とても静かな日。よく晴れた深く青い空に一面の白い雪景色が美しく映えていた。アメリカ北部特有の広大な森の中を切り開いて建てた家は、僕の記憶の中にあった家よりは少し小さかったけれど、その日雪に埋もれていた砂利道は、僕も昔一緒に石をどかす手伝いをしたのと同じ道だった。あの日は、とても日差しが強い夏の日だった。
僕は、20年の間にその人はどういう風に老いてしまっただろうか、というようなことを考えながらその砂利道をゆっくりと進んだ。その人の顔を思い出そうとしたけれど、もやもやとしか思い出せなかった。もし顔を見ても分からなかったらどうしよう、と一瞬考えた。けれど、ドアを開けて僕を迎えてくれたその人の笑顔を見た途端、何故か僕は、自分の記憶の中の笑顔とちっとも変わってないな、と思った。
昔と同じように、食卓にて短くお祈りを捧げてから皆でゆっくりと食事をした。ふと、なんだかでこぼこするな、と思って僕のテーブルクロスの下を探ると、小さな木を不器用にくっつけて作った木工船が出てきた。その船の横には、間違いなく今と変わらない僕の字で、自分の名前が書いてあった。
すっかり忘れていたけれど、その頃僕は毎週のようにその人の家に通って木工工作をしていたのだ。そんなものを20年間も大事に持っていてくれたというのが、ものすごく嬉しかった。同時に、やっぱり会いに来てよかった、と思った。冬の静かな午後の森に時間がゆったりと流れ、久しぶりに時計を見るのも忘れて話をした。帰りがけに船を一緒に持っていこうとすると、それは私が持っておくと言う。そうだ、その方がいい、と思った。
人生において、20年というのは長いようで短く、短いようで長い。ルイと共に音楽界で確固たる地位を築きあげたベシェが、25年間一度も録音せず又他のミュージシャンが殆ど顧みることもなかったこの曲を、改めて演奏しようと思ったのはどうしてだったのだろうか。そんなことを考えながら僕はふと、あの不細工な木工船をまた見ることはあるのだろうか、と思った。
2008年1月14日月曜日
Blues in Thirds
ピアノの名手アール・ハインズが1928年に作曲しソロピアノで録音した曲。何となく東洋的で静かな和音が耳に心地よい、まるで子守唄を聴くような優しいブルースだ。べシェは1940年の秋に、ハインズのピアノとベイビー・ドッズのドラムをバックに録音しているが、べシェの演奏もハインズのピアノに劣らないほど素晴らしく深い温かみがある。
心の中が落ち着く音がある。冬のからっと晴れて風の凪いだ海辺で、松林の上から聞こえてくるトンビの威勢良いのんびり声。誰もいない夕方の砂浜に夕陽に照らされながら滑らかに打ち寄せる湖の遠慮がちな波の音。寒さがしみる秋の夜の湿った闇の中で燃え尽きそうな赤い焚き火がくすぶる音。薄く霧の這う早朝の眠たげな湿原の静寂に遠くこだます白鳥のミュート・トランペットのような鳴き声。どれを聴いたときも強烈に、ああ、いい音だな、と思った。そしてこの曲を初めて聴いたときも、いい音だな、と思った。
何かの拍子に似たような香りを鼻にし、昔の記憶が突如思い出される、ということはたまにあるが、今まで音については不思議とあまりそういう覚えがない。でも、もしかしたらそれはそれで良いことなのかもしれない。世の中には、毎日出会えないような音が沢山溢れている方がいいだろうから。
心の中が落ち着く音がある。冬のからっと晴れて風の凪いだ海辺で、松林の上から聞こえてくるトンビの威勢良いのんびり声。誰もいない夕方の砂浜に夕陽に照らされながら滑らかに打ち寄せる湖の遠慮がちな波の音。寒さがしみる秋の夜の湿った闇の中で燃え尽きそうな赤い焚き火がくすぶる音。薄く霧の這う早朝の眠たげな湿原の静寂に遠くこだます白鳥のミュート・トランペットのような鳴き声。どれを聴いたときも強烈に、ああ、いい音だな、と思った。そしてこの曲を初めて聴いたときも、いい音だな、と思った。
何かの拍子に似たような香りを鼻にし、昔の記憶が突如思い出される、ということはたまにあるが、今まで音については不思議とあまりそういう覚えがない。でも、もしかしたらそれはそれで良いことなのかもしれない。世の中には、毎日出会えないような音が沢山溢れている方がいいだろうから。
2008年1月10日木曜日
Strike up the Band
1927年、ガーシュイン兄弟によるミュージカルの主題歌として登場したこの曲は、一度聞けば忘れる事が出来ない他のガーシュインナンバーの例にもれず、多くの人に愛され沢山のミュージシャンにより演奏されてきた。
ベシェも晩年の1952年、パリでこの曲を録音している。もとよりミュージカルゆえ、軽快を通り越して軽薄とも思える程ひたすら能天気に明るいこの曲を、ベシェがニューヨーク時代ではなく晩年のパリで録音しているのも、偶然ではないような気がする。ベシェの作曲したものを除いて、この曲ほどパリ時代の華やかなベシェに合う曲も他にあまりないだろう。だが、その演奏自体は決して軽薄ではなく、あくまで本気だ。それは、とかく悪く言われがちなパリ時代のベシェの録音全体を通して言える事でもある。
この正月、久々に日本に一時帰国した。学生時代から遊びでジャズを一緒にやっている悪友連中とちょこっとだけ演奏した後、盛大に重慶火鍋を囲んであまりの辛さに罵声を浴びせつつ酒で喉を潤し、その勢いで迷惑を顧みずに新婚さんの家に流れ込んで皆で緑茶を頂いていたら、更に酒が進んでしまった。
年をとってしまったようで大変嫌なのだが、こういう「無駄」な時間がどれだけ贅沢なものか、というのは、昔は分からなかったような気がする。僕なら、こういう連中と「Strike up the Band」を演奏したい。
ベシェも晩年の1952年、パリでこの曲を録音している。もとよりミュージカルゆえ、軽快を通り越して軽薄とも思える程ひたすら能天気に明るいこの曲を、ベシェがニューヨーク時代ではなく晩年のパリで録音しているのも、偶然ではないような気がする。ベシェの作曲したものを除いて、この曲ほどパリ時代の華やかなベシェに合う曲も他にあまりないだろう。だが、その演奏自体は決して軽薄ではなく、あくまで本気だ。それは、とかく悪く言われがちなパリ時代のベシェの録音全体を通して言える事でもある。
この正月、久々に日本に一時帰国した。学生時代から遊びでジャズを一緒にやっている悪友連中とちょこっとだけ演奏した後、盛大に重慶火鍋を囲んであまりの辛さに罵声を浴びせつつ酒で喉を潤し、その勢いで迷惑を顧みずに新婚さんの家に流れ込んで皆で緑茶を頂いていたら、更に酒が進んでしまった。
年をとってしまったようで大変嫌なのだが、こういう「無駄」な時間がどれだけ贅沢なものか、というのは、昔は分からなかったような気がする。僕なら、こういう連中と「Strike up the Band」を演奏したい。
2008年1月4日金曜日
Hat in a closet
(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第3章「私の父」より。)
人々は良い音楽を求め探し回る。だが音楽とは、どこにでもあるのだ。それはあなたが求める中に常にある。悲しいとき、何かを記憶にとどめたいとき、嬉しいとき。
伯母さんが置いていった帽子を、クローゼットの中で見つけたとする。帽子はただそこに置かれてあり、伯母さんは亡くなってしまった。伯母さんは美しい人で、その帽子をいつもかぶっていた。良いときも、悪いときも、常に彼女と一緒に色々な所に行ったが、最後に置いていかれてしまった。
私の演奏も、そのようなものなのだ。
人々は良い音楽を求め探し回る。だが音楽とは、どこにでもあるのだ。それはあなたが求める中に常にある。悲しいとき、何かを記憶にとどめたいとき、嬉しいとき。
伯母さんが置いていった帽子を、クローゼットの中で見つけたとする。帽子はただそこに置かれてあり、伯母さんは亡くなってしまった。伯母さんは美しい人で、その帽子をいつもかぶっていた。良いときも、悪いときも、常に彼女と一緒に色々な所に行ったが、最後に置いていかれてしまった。
私の演奏も、そのようなものなのだ。
2007年12月31日月曜日
Blue Horizon
1944年12月末、真冬のニューヨークにてBlue Noteレーベルのためにベシェが作曲し録音したブルース。
よく晴れた夏の何もやる事がない休日の午後、眠たげに遠く青い海に白い波が一面ゆっくりとうねっていくような、そんな情景が簡単に目に浮かぶ名曲。ベシェの数々の録音の中で、間違いなく最も秀逸な作品の一つだ。
ブルースと聞いて、やたらと泥臭い旋律を思い浮かべる向きが多いかもしれないが、このような純粋に美しいブルースを聴くと、単純に心の底が落ち着き、つい聴きいってしまう。
2007年、今年はアメリカ中西部にて四苦八苦の生活をしながら、色々なことを経験してきた。面白いこともあれば、辛いこともあったけれど、そういう経験の一つ一つが、自分の感受性を高めるものでもあってくれれば、嬉しい。到底そんな高度な感受性は持ち合わせていないのかもしれないけれど。
晩秋のある夕方、職場の集まりに出るため、車で西へ向かった。慣れない職場で、先が全く見えないような毎日が続いていて、とてもそんな集まりにのこのこと出かけるような気分ではなかった。
急に、走っていく高速道路の先に、ぽっかりと大きな夕焼け空が真っ赤に広がっていた。その上を夕日に染まった雲がのんびりと流れ、なんだか風景がすべて茶色にくすんだ懐かしい映画の場面のように見えた。
そのとき僕は唐突に、もう少しここで頑張ってみよう、と思った。車の中には、「Blue Horizon」が流れていた。
よく晴れた夏の何もやる事がない休日の午後、眠たげに遠く青い海に白い波が一面ゆっくりとうねっていくような、そんな情景が簡単に目に浮かぶ名曲。ベシェの数々の録音の中で、間違いなく最も秀逸な作品の一つだ。
ブルースと聞いて、やたらと泥臭い旋律を思い浮かべる向きが多いかもしれないが、このような純粋に美しいブルースを聴くと、単純に心の底が落ち着き、つい聴きいってしまう。
2007年、今年はアメリカ中西部にて四苦八苦の生活をしながら、色々なことを経験してきた。面白いこともあれば、辛いこともあったけれど、そういう経験の一つ一つが、自分の感受性を高めるものでもあってくれれば、嬉しい。到底そんな高度な感受性は持ち合わせていないのかもしれないけれど。
晩秋のある夕方、職場の集まりに出るため、車で西へ向かった。慣れない職場で、先が全く見えないような毎日が続いていて、とてもそんな集まりにのこのこと出かけるような気分ではなかった。
急に、走っていく高速道路の先に、ぽっかりと大きな夕焼け空が真っ赤に広がっていた。その上を夕日に染まった雲がのんびりと流れ、なんだか風景がすべて茶色にくすんだ懐かしい映画の場面のように見えた。
そのとき僕は唐突に、もう少しここで頑張ってみよう、と思った。車の中には、「Blue Horizon」が流れていた。
2007年12月24日月曜日
Spirit Holiday
1958年12月、Vogueのクリスマス用レコーディングのためにベシェが用意した曲「Spirit Holiday」。
録音自体はオルガンをバックにベシェが囁いたり、ジャケットではベシェがサンタの赤帽子を被ったりといささか変り種嗜好だが、その素朴で心に残るメロディはベシェの真骨頂であり本物だ。
本Vogueのセッションは、ベシェ生涯最後の録音でもある。だが、そんなセンチメンタリズムは全く無用なほど、今でも美しく光り続けるベシェの傑作だ。
クリスマスの思い出も、そんなものであるような気がする。
録音自体はオルガンをバックにベシェが囁いたり、ジャケットではベシェがサンタの赤帽子を被ったりといささか変り種嗜好だが、その素朴で心に残るメロディはベシェの真骨頂であり本物だ。
本Vogueのセッションは、ベシェ生涯最後の録音でもある。だが、そんなセンチメンタリズムは全く無用なほど、今でも美しく光り続けるベシェの傑作だ。
クリスマスの思い出も、そんなものであるような気がする。
2007年12月23日日曜日
Under the Creole Moon
1934年、Noble Sissleオーケストラの一員としてベシェが録音した陽気なスイングナンバー。 底抜けに陽気な曲は、ふと気がつくと何故かとても寂しい気持になることがある。それは、冷たい月が照らす冬の薄暗い路地裏から、決して自分は入れない他人の家の暖かな明かりを眺める気分に、少し似ているような気がする。
下記は5年前の文。さて、今晩はどんな月が夜道を照らしているのだろう。
「月」
昔、野宿をした。
東京駅で終電に乗り遅れ、皇居の広場のベンチでねっころがって夜空を眺めた。
静まりかえった東京のどまんなかで、深い星空に薄く輪のかかったぼんやりした月が面倒くさそうに昇っていった。
あれから10年。
会社員として働きながら家庭を持ち。
ふと、今日の夜空の月はどんな風に見えるだろう、と湯船の中で夜風の音を聴きながら思った。
でも、考えすぎると疲れてしまうから、とっとと寝てしまおう、と思い直した。
外では夜風がことこと鳴っている。
きっとその上では今日もあのまあるい月が、ちょっとぼやけて光っているのだ。
目を閉じると、昔見たあの月が見える気がした。
けれども、それははるか遠くの記憶の中で、もうすっかりぼやけてしまっているようでもあった。
下記は5年前の文。さて、今晩はどんな月が夜道を照らしているのだろう。
「月」
昔、野宿をした。
東京駅で終電に乗り遅れ、皇居の広場のベンチでねっころがって夜空を眺めた。
静まりかえった東京のどまんなかで、深い星空に薄く輪のかかったぼんやりした月が面倒くさそうに昇っていった。
あれから10年。
会社員として働きながら家庭を持ち。
ふと、今日の夜空の月はどんな風に見えるだろう、と湯船の中で夜風の音を聴きながら思った。
でも、考えすぎると疲れてしまうから、とっとと寝てしまおう、と思い直した。
外では夜風がことこと鳴っている。
きっとその上では今日もあのまあるい月が、ちょっとぼやけて光っているのだ。
目を閉じると、昔見たあの月が見える気がした。
けれども、それははるか遠くの記憶の中で、もうすっかりぼやけてしまっているようでもあった。
2007年12月21日金曜日
Prelude
(シドニーベシェ著「Treat it gentle」、第1章「道の曲がり角」より。)
中にはジャズについて何も分かっていない輩もいる。彼等はジャズはただのいかがわしい物と思っている。でもそれは違う。だから私が本当の所を伝えよう。ジャズ-それが何であるのか、どうやって今に至るのか。
私のところに来て「Tin Roof Bluesを演奏するのか?」と言う人がいる。彼らは「Be-bopについてどう思うか?」「ルイが出したレコードについてどう思うか?」などと聞く。しかし、そのような質問に答えるためには、ずっとずっと話を遡らなくてはならない。彼等が思っている以上に、奥が深いのだ。
彼らは私のところにやってきて、このレコードが好きだとかあれがいいとか言う。そして私が音楽で何をしようとしているのかと聞く。彼らはジャズはこれからどうなるのか、どこに進むのか、と聞く。ある日パリで演奏しているとき、ある男が私のところにやってきた。演奏が終わった後、彼と話をした。彼は私の演奏を聴けたことが彼にとってどんなにありがいことであったか、いかに貴重な経験であったかを延々とまくしたてた。私は彼に対して、「私は今までやってきたように、いつも通りの演奏をしただけです。」と答えた。それしか言いようがなかったのだ。
しかし彼は続けた。彼はあることを確かめたくて私のところに来たのだと言う。彼は当初はここに来るつもりではなかったこと、それがたまたま彼の友人が私の演奏を聴きに来ようと誘ったこと、私がまだ古いニューオリンズの音楽をやっていると言っていたこと。彼はそのように説明した。「この音楽はあなただけのものです。」と彼は言った。
だが、私だけの音楽などない。音楽は、それを感じることができる全ての人のものなのだ。音楽があり、それを感じることができれば、それはあなたのものでもあるのだ。日の光を感じるには日のもとに出なければならない。音楽についても同じだ。
しかし、彼が言ったことは私を考えさせた。ラグタイムがニューオリンズで始まったと聞いて、そこで思考が止まってしまっている人が多くいるのではないか。ジャズを追憶のものとしてしか考えていない人がいるのでないか。彼らは分かっていない。彼らの目の前で今起こっていることが、まさに彼らの追憶の彼方で起こったものと全く同じくらい価値のあるものであることを。
彼は続けた。「あなたはフランス人に活を与えた。あなたが来るまで彼らにはそれが欠けていた。」そして、「あなたのような人間がいなくなった後、ジャズはどうなってしまうのか?」と彼は聞いた。
だがジャズは、私だけのものではない。ジャズとは一人の演奏家のものではない。ジャズは常にあり続けるのだ。私と共に終わりはしない。なくなったりはしない。メロディがあり・・・それを感じる人がいて・・・メロディがある限り、リズムが生まれ、ジャズとなる。しかし彼は話をやめなかった。彼は私こそがこの音楽を作ったのだ、とさえ言い出した。私と、バディ・ボールデン、キッド・オリ-、ラロッカなどがだ。そこまで来て、それは違う、と私はさえぎった。ボールデンやオリバーなど、一人の人間がジャズを造ったという人がいるが、それは違う。そんなことではなかった。
私は、その昔どのようにしてジャズが始まったか、彼に話し始めた。人々の手拍子・・・それすらもジャズであること。テーブルを叩くだけでもジャズになること。それを説明した。
しかし彼は心配だと言った。彼のように、友達に誘われてでもしないと聞く機会もなく、ジャズはなくなってしまうのではないかと。彼は「ジャズは環境が作る」と言った。「環境を作る何か。でも、今の世の中、それがなくなり、伝説しか残っていない。初期の時代のことについて本を読み、友達と集まってレコードをかけるだけ。それ以上に何もできない。今から楽器を始める子供達は、どこからもジャズなど聞こえないこの世の中で、ジャズをどのよう求めればいいのだろう・・・。」
「もしかしたら全てニューオリンズで終わってしまったのかもしれない。」彼は続けた。「もしかしたらもうわずかな生き残りを除いてジャズなど存在しないのかもしれない。もしかしたらもうそれを覚えている者以外にはジャズは存在しないのかもしれない。」
まあ、このようなことが彼の頭の中にあったようだ。しかし、言わせて欲しい。ジャズはそもそも白人がこの音楽につけた名前だが、私がもしあなたの背後から「ジャズ、それは君にどんな意味を持っているか?」と囁いたとしたら、ジャズはあなたにとってどのような意味を持つだろうか・・・そんなことではこの音楽を説明などできないはずだ。
音楽には二つある。クラシックとラグタイムだ。ラグタイムという時には、言葉の中にスピリットが感じられる。私の祖父Omarが歌っていた黒人霊歌だ。だがジャズ・・・これは何でもありうる。気分のいい時ふざけあい楽しむ。昔はふざける、という意味でジャズ(Jass)が使われた。だがラグタイムという時、それは音楽を指す。
しかし、私が言いたいのはこういうことだ。全ての神の子には幸せが必要だ。私の人種、音楽・・・ジャズは彼らが、あなたがどうやったら幸せになれるのか、ということを示す何かだ。そしてそれは彼らを幸せにするものだ。霊歌は寂しいものだ。しかし同時にある意味幸せも含んでいる。いつの日か「お前は天国には行けない。この地球上にも居場所はない。お前は我々の人種と異なる。」と言われるかもしれない。それでも、全ての神の子はどこかで幸せを手にする。我々もそうだ。
黒人は音楽に固執しない。だが、音楽を必要とする。それが彼にとって意味があるからだ。彼がその意味あるものとなるからだ。常に正直であれば、音楽に触れられる。だが「そこがあなたの居場所だ。」と不自然に強制されて、正直でなどいられるのであろうか。
しかし、音楽を感じることが出来れば、彼の言うことがわかるはずだ。だからこそ、彼はそれを大事にするのだ。彼は常に学んでいるのだ。自分の内から湧き出る言葉、時間を遡り、アフリカまで遡り、密林の中、太鼓が密林を越えて会話し、彼の心臓の鼓動のように空気を揺るがすことを。
私の話は大昔に遡る。私には関係がなかった頃まで遡る。私の音楽はそのようなものだからだ・・・つまり、私はそれを承継しているのだ。父が子に昔話を語り継ぐように。そしてそれが今の私を作り上げているのだ。私の人生は全て、私が理解している何かを伝えようとしてきた・・・私の中で私以前から存在してきた何かだ。音楽になることを待っている何かだ。それは私が自分の生涯をかけて自分自身に明らかにしようとしてきたものでもある。
私は私が逝く前にこの音楽について伝えておきたい。人生は短く、人が幸せに逝く前にはやっておかねばならないことがある。
死・・・これは誰にでも訪れる。しかし、単に死ぬことと、幸せに逝くこととは全く違うことだ。自分のやり遂げたいことをやり遂げて逝くこと、これは全く異なることだ。
それはある道の曲がり角の小さな家で生まれた男に似ている。少し経つと男は道を歩き始める。男はその道を歩き、そして帰ってくる。帰ってきたとき、その男は何かを理解している。つまり、彼は道がどこに進み、帰ってくるかを知っている。彼は、道が進んでいったのと同じように帰ってくることを知っている。
しかしもう一人の男は違う。彼はその道の曲がり角にいついて歩こうとしない。時は経ち、彼の余命はあとわずかだ。彼は道を見るが、それが本当は何であるのか、分からない。彼が知っているのは道が始まっていると言うことだけだ。彼は道がどのように進んで、どのように帰ってくるのか、帰ってくるときにどのように感じるのか、分からない。彼はいい人かもしれない。しかし、彼は理解していないことがあるのだ。道が悪かったのか、彼が悪かったのか、それとも何か他のものか、それはさておき、彼は信じることができなかったのだ。
私が若かった頃のことを思い出す。他の子供のようにおもちゃを持っていなかった。おもちゃなんて一つもなかった。誰かがおもちゃをくれてもどうしていいか分からなかっただろう。そんな時、ある歌を書き始めた。Sans Amisという曲だ。何も遊ぶものがなく、誰とも遊べなかった。だが、私には歌があった。私はどんどんその歌を作った。私は寂しさの歌を作ったが、歌を作ったら寂しくなくなった。私は幸運だった。私には信じるものが出来たのだ。そして自分自身も信じられるようになった。
私は確かに悪さもした。しかし音楽に対しては違う。音楽は信じなければならない。本気で信じ、丁重に扱わねばならない。音楽は道なのだ。その脇にはいいこともあれば悲劇もある。どこかで道草をしても何が待っているかはわからない。だが音楽という道は、それ自体は止まらない。常に進み続ける。それを信じるしかないのだ。それは違う、と言いにその道を帰ってきた者はいないのだから。
もし帰ってきた時、道の脇には川があるだろう。全てを始めた場所に戻り、川の向こうを眺め、用意をする。大分私も幸せな気分になってきたようだ。もうそろそろ私の用意もできてきた。もうそろそろ。
中にはジャズについて何も分かっていない輩もいる。彼等はジャズはただのいかがわしい物と思っている。でもそれは違う。だから私が本当の所を伝えよう。ジャズ-それが何であるのか、どうやって今に至るのか。
私のところに来て「Tin Roof Bluesを演奏するのか?」と言う人がいる。彼らは「Be-bopについてどう思うか?」「ルイが出したレコードについてどう思うか?」などと聞く。しかし、そのような質問に答えるためには、ずっとずっと話を遡らなくてはならない。彼等が思っている以上に、奥が深いのだ。
彼らは私のところにやってきて、このレコードが好きだとかあれがいいとか言う。そして私が音楽で何をしようとしているのかと聞く。彼らはジャズはこれからどうなるのか、どこに進むのか、と聞く。ある日パリで演奏しているとき、ある男が私のところにやってきた。演奏が終わった後、彼と話をした。彼は私の演奏を聴けたことが彼にとってどんなにありがいことであったか、いかに貴重な経験であったかを延々とまくしたてた。私は彼に対して、「私は今までやってきたように、いつも通りの演奏をしただけです。」と答えた。それしか言いようがなかったのだ。
しかし彼は続けた。彼はあることを確かめたくて私のところに来たのだと言う。彼は当初はここに来るつもりではなかったこと、それがたまたま彼の友人が私の演奏を聴きに来ようと誘ったこと、私がまだ古いニューオリンズの音楽をやっていると言っていたこと。彼はそのように説明した。「この音楽はあなただけのものです。」と彼は言った。
だが、私だけの音楽などない。音楽は、それを感じることができる全ての人のものなのだ。音楽があり、それを感じることができれば、それはあなたのものでもあるのだ。日の光を感じるには日のもとに出なければならない。音楽についても同じだ。
しかし、彼が言ったことは私を考えさせた。ラグタイムがニューオリンズで始まったと聞いて、そこで思考が止まってしまっている人が多くいるのではないか。ジャズを追憶のものとしてしか考えていない人がいるのでないか。彼らは分かっていない。彼らの目の前で今起こっていることが、まさに彼らの追憶の彼方で起こったものと全く同じくらい価値のあるものであることを。
彼は続けた。「あなたはフランス人に活を与えた。あなたが来るまで彼らにはそれが欠けていた。」そして、「あなたのような人間がいなくなった後、ジャズはどうなってしまうのか?」と彼は聞いた。
だがジャズは、私だけのものではない。ジャズとは一人の演奏家のものではない。ジャズは常にあり続けるのだ。私と共に終わりはしない。なくなったりはしない。メロディがあり・・・それを感じる人がいて・・・メロディがある限り、リズムが生まれ、ジャズとなる。しかし彼は話をやめなかった。彼は私こそがこの音楽を作ったのだ、とさえ言い出した。私と、バディ・ボールデン、キッド・オリ-、ラロッカなどがだ。そこまで来て、それは違う、と私はさえぎった。ボールデンやオリバーなど、一人の人間がジャズを造ったという人がいるが、それは違う。そんなことではなかった。
私は、その昔どのようにしてジャズが始まったか、彼に話し始めた。人々の手拍子・・・それすらもジャズであること。テーブルを叩くだけでもジャズになること。それを説明した。
しかし彼は心配だと言った。彼のように、友達に誘われてでもしないと聞く機会もなく、ジャズはなくなってしまうのではないかと。彼は「ジャズは環境が作る」と言った。「環境を作る何か。でも、今の世の中、それがなくなり、伝説しか残っていない。初期の時代のことについて本を読み、友達と集まってレコードをかけるだけ。それ以上に何もできない。今から楽器を始める子供達は、どこからもジャズなど聞こえないこの世の中で、ジャズをどのよう求めればいいのだろう・・・。」
「もしかしたら全てニューオリンズで終わってしまったのかもしれない。」彼は続けた。「もしかしたらもうわずかな生き残りを除いてジャズなど存在しないのかもしれない。もしかしたらもうそれを覚えている者以外にはジャズは存在しないのかもしれない。」
まあ、このようなことが彼の頭の中にあったようだ。しかし、言わせて欲しい。ジャズはそもそも白人がこの音楽につけた名前だが、私がもしあなたの背後から「ジャズ、それは君にどんな意味を持っているか?」と囁いたとしたら、ジャズはあなたにとってどのような意味を持つだろうか・・・そんなことではこの音楽を説明などできないはずだ。
音楽には二つある。クラシックとラグタイムだ。ラグタイムという時には、言葉の中にスピリットが感じられる。私の祖父Omarが歌っていた黒人霊歌だ。だがジャズ・・・これは何でもありうる。気分のいい時ふざけあい楽しむ。昔はふざける、という意味でジャズ(Jass)が使われた。だがラグタイムという時、それは音楽を指す。
しかし、私が言いたいのはこういうことだ。全ての神の子には幸せが必要だ。私の人種、音楽・・・ジャズは彼らが、あなたがどうやったら幸せになれるのか、ということを示す何かだ。そしてそれは彼らを幸せにするものだ。霊歌は寂しいものだ。しかし同時にある意味幸せも含んでいる。いつの日か「お前は天国には行けない。この地球上にも居場所はない。お前は我々の人種と異なる。」と言われるかもしれない。それでも、全ての神の子はどこかで幸せを手にする。我々もそうだ。
黒人は音楽に固執しない。だが、音楽を必要とする。それが彼にとって意味があるからだ。彼がその意味あるものとなるからだ。常に正直であれば、音楽に触れられる。だが「そこがあなたの居場所だ。」と不自然に強制されて、正直でなどいられるのであろうか。
しかし、音楽を感じることが出来れば、彼の言うことがわかるはずだ。だからこそ、彼はそれを大事にするのだ。彼は常に学んでいるのだ。自分の内から湧き出る言葉、時間を遡り、アフリカまで遡り、密林の中、太鼓が密林を越えて会話し、彼の心臓の鼓動のように空気を揺るがすことを。
私の話は大昔に遡る。私には関係がなかった頃まで遡る。私の音楽はそのようなものだからだ・・・つまり、私はそれを承継しているのだ。父が子に昔話を語り継ぐように。そしてそれが今の私を作り上げているのだ。私の人生は全て、私が理解している何かを伝えようとしてきた・・・私の中で私以前から存在してきた何かだ。音楽になることを待っている何かだ。それは私が自分の生涯をかけて自分自身に明らかにしようとしてきたものでもある。
私は私が逝く前にこの音楽について伝えておきたい。人生は短く、人が幸せに逝く前にはやっておかねばならないことがある。
死・・・これは誰にでも訪れる。しかし、単に死ぬことと、幸せに逝くこととは全く違うことだ。自分のやり遂げたいことをやり遂げて逝くこと、これは全く異なることだ。
それはある道の曲がり角の小さな家で生まれた男に似ている。少し経つと男は道を歩き始める。男はその道を歩き、そして帰ってくる。帰ってきたとき、その男は何かを理解している。つまり、彼は道がどこに進み、帰ってくるかを知っている。彼は、道が進んでいったのと同じように帰ってくることを知っている。
しかしもう一人の男は違う。彼はその道の曲がり角にいついて歩こうとしない。時は経ち、彼の余命はあとわずかだ。彼は道を見るが、それが本当は何であるのか、分からない。彼が知っているのは道が始まっていると言うことだけだ。彼は道がどのように進んで、どのように帰ってくるのか、帰ってくるときにどのように感じるのか、分からない。彼はいい人かもしれない。しかし、彼は理解していないことがあるのだ。道が悪かったのか、彼が悪かったのか、それとも何か他のものか、それはさておき、彼は信じることができなかったのだ。
私が若かった頃のことを思い出す。他の子供のようにおもちゃを持っていなかった。おもちゃなんて一つもなかった。誰かがおもちゃをくれてもどうしていいか分からなかっただろう。そんな時、ある歌を書き始めた。Sans Amisという曲だ。何も遊ぶものがなく、誰とも遊べなかった。だが、私には歌があった。私はどんどんその歌を作った。私は寂しさの歌を作ったが、歌を作ったら寂しくなくなった。私は幸運だった。私には信じるものが出来たのだ。そして自分自身も信じられるようになった。
私は確かに悪さもした。しかし音楽に対しては違う。音楽は信じなければならない。本気で信じ、丁重に扱わねばならない。音楽は道なのだ。その脇にはいいこともあれば悲劇もある。どこかで道草をしても何が待っているかはわからない。だが音楽という道は、それ自体は止まらない。常に進み続ける。それを信じるしかないのだ。それは違う、と言いにその道を帰ってきた者はいないのだから。
もし帰ってきた時、道の脇には川があるだろう。全てを始めた場所に戻り、川の向こうを眺め、用意をする。大分私も幸せな気分になってきたようだ。もうそろそろ私の用意もできてきた。もうそろそろ。
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